私が、ハイキングなどとは異質の、登山と言えるレベルの本格的な経験をしたのは、山小屋生活一年目、鳳凰山の残雪期だった。


ハイシーズンに備えて、雪に埋もれた小屋を雪かきして救出するための登山。
言い方を変えれば、仕事での登山ということになる。

冬季登山


初めての登山、体力だけを頼りに登ることになったのは良いのだが、私は山について何も知らない。
ましてや、冬山のことなど、全くもって知る由もない。
雪が降ったら公共交通機関がストップしてしまう都会に住んでいたもんだから、雪に対する抵抗力すら持ち合わせていない自分。


こんなときは持ち前の「なんとかなるでしょ」精神を前面に押し出すしかないが、雪山に関してだけは基本的に「なんとかなる」場所ではない
生きるための選択と決断が必要な場所。


そのことだけは、毎年のニュースなどで知っていた。
山の経験と知識を兼ね備えた人々でさえ、いとも簡単に生の向こう側へ行ってしまうことになりかねない過酷な環境なのは、情報としては知っている。
そこへ自分も行こうとしている、今思えば、何も知らなくて逆によかったと思っている。


そういえば、冬山に登る前に山小屋のオーナーに色々と尋ねられた。
アイゼンは持ってるか、ストックは持ってるか、ピッケルは、ハードシェルは、ガスは、ゴトクは、コッヘルは、シュラフは、ヘッドライトは、などなど。

このとき理解できた、知ってるアイテムはたった三つ。
ストック、ピッケル、ヘッドライトだけ。


その他はよくわからないけど、大丈夫です、持ってます!と答えて、急いで買い出しに出かけたのを覚えている。


初めてのアイテム選びは緊張した。
普段の買い物とはチョット違う。
自分の命を預けるものを慎重に選ぶのだから、真剣にならざるを得ない
何もわからない状態で、高価な山道具をポンポン買っていく。
山の道具なんて何も持っていなかったから、一から全て揃えた。


私は、道具を一通り揃えた時点で満足していた。
わかりやすいまでの手段と目的の逆転劇。
ただ、今回は仕事として行くのだから、行かなければならない。
というより、せっかく買ったのに行かないという選択肢は基本的にない。

冬季登山


さて、いざ登山当日の朝。
まだ太陽が登っていない時間帯。
この時間に起きて行動するのは慣れないし嬉しくもないが、未知への第一歩と思うと、心踊った。


前の晩は緊張して夜も眠れないかと思いきや、そんなことは全然なかった。
むしろ、今までの人生で緊張してパフォーマンスが発揮できなかったことは一度もない。
いつも通りの時間にいつも通り寝た。
案の定、いつも通り朝は眠い。


長野方面へ向かうJR中央線に乗り込むと、何人かは私と同じようなアウトドアウェアに大型ザックを着こなしている同胞だったが、しかし大半はぬるっとスーツ姿に変身している企業戦士たちだった。


私は座席に座り、ザックを膝上に抱え、それを枕がわりにして大爆睡。
耳に突っ込んでいたイヤホンの音で起き、周りを見回してみると、満席だった車内がガラガラになり、景色は朝日輝く田園風景に変わっていた。


そして、集合場所の穴山駅で下車する。


穴山駅は無人駅。
片道2270円の切符をポケットにしまったまま駅を出る。
駅を出ると目の前に駐車場が広がり、そこには一台の年季が入っていてカッコ良いピックアップトラックが止まっていた。
山小屋オーナーの車だ。

冬季登山


挨拶を済ませると、今回一緒に登る二人を紹介された。
会釈と名前だけのシンプルな挨拶。
山の男の世界というのはこんなに淡白なのだろうかと、正直思った。
そのときはフレンドリーさは微塵も感じなかった。


荷物をピックアップトラックの荷台にアメリカのロードムービーさながらに乗せて、いざ登山口へ出発。
車の中、毎朝繰り返している出勤のように手慣れた寡黙な三人と、様子を伺いつつ、違う意味で寡黙なド新人が一人


ここで補足しておくと、駅で淡々と初めましての挨拶を交わした先輩二人は、その後山岳雑誌の表紙を飾って写真家となる人と、世界の8000m峰に幾度となく登ることになる人で、運転する山小屋のオーナーは、その昔動物写真家として有名だった南アルプスの最長老という、山に生きる、これ以上ない面々だった。


そんな中に囲まれた車内では、私のような初心者は言うべき言葉もなく、ただひたすら貨物のように揺られていた。
荒れた林道をしばらく行くと、登山口の温泉に到着した。


私は、ここに来る前日に電話で、山の上で宿泊するための食料を入れるために、ザックのスペースを空けとくように言われていた。
その大量の食料が目の前にある。


それはそうだ。
大食らいの男三人が自分の馬力だけで一日中雪かきをするのだから、それに見合うエネルギーをガツガツと体内に取り込むことが絶対不可欠。
ガス欠で使い物にならなければ、意味がない。
しかも最悪の場合、天候が悪ければ何も作業が進まずに食料だけが減っていくことを考えると、多めに持っていくのは当然のこと。

三人のザックに、重さを考慮しながらパンパンに詰め込むと、肩にのしかかる重量は相当なものになった。
おそらく20〜25kgだったのではないかと思う。
全盛期でこそ、倍の50kgくらいの荷物を背負って急登を登ることはできたが、初めて体感する重みとしては20kgでも十分すぎた
少し大げさに言おう、命の重さを背負ってる感覚がした。

冬季登山


いざ出発すると、歩いてすぐのところでいきなり汗が噴出する。
真冬、気温は氷点下ギリギリライン。
さっきまで着込んで体熱を保温していたのに、出発早々に半袖一枚となった。
登山にとって汗は大敵。
染み込んだ汗が休憩中に冷えて、体力を一気に奪われてしまうためだ。


一度下ろしたザックを背負い直すのがめんどくさいが、ここはしょうがない。
私がよいしょとザックを下ろし、ジャケットを脱いで半袖になっているところで、一人の先輩が言った。

昨日深夜にサッカー欧米サッカーの試合が盛り上がっててさあ、結局寝ないで来ちゃったわ。(大あくび)眠い。

狂気の沙汰である。


場数を踏むとこんなにもリラックスして登れるのかと、衝撃を受け、そしてその発言をした時の空気感が修羅場を潜り抜けてきた人のそれだなと直感的に感じ、この人の言うことは全部受け入れようと、そのとき確信した

・・・

どれくらい歩いただろうか。
山の中腹、とうとう積雪が見え始めた。
当たり前だが、山は標高をあげるに連れて気温が下がっていく。
積雪が見え始めたあたりを境に、一気に空気の質がヒヤリと変わるのを、半袖から剥き出した肌が感じ取っていた


頃合いを見計らってアイゼンを装着し、雪の世界へ突入していく。
いよいよかと、私の士気も上がる。

冬季登山


全てを先輩任せ、ペース配分も先輩任せ。
地図がわからず現在地が把握できておらず、適切な体力の配分がわからないが、気力さえあればある程度はカラダが動くことを、小学生のときにやっていた長距離走で体感していたため、イケる自信だけはあった(というか、行かなければならない)。


私にできることはただ一歩ずつ、アイゼンがついて重くなった足をひたすらに前へ運んでいくだけ。
ただそれだけのこと、簡単なこと。
しかし、簡単すぎることの方が、実は難しいことだったりする。
とりあえず、いま出した一歩のおかげで、間違いなく小屋に近づいていることだけを自分の心の支えとして、歩き続けた。


出発して4時間くらいのところで、雪の深さは股下くらいの位置にまで来てしまった。
とうとう、修羅場まで来た。
肩には重りを背負っている、肩は慣れない初めての負荷に負けてしまいそうだ。
ズボッとハマった足を引き上げてるその間は、重りを片足だけで支えていることになる。
前に投げ出して、今度は違う方の足をまたズボッと引っこ抜く。


順調に事運べばたやすいが、引っこ抜こうとしても、足元の雪が固まって抜け出せないことがたまにある。
一歩を出すのさえ辛いにも関わらず、そのうえ足を引っこ抜かねばならないなんて、どうかしてる。
非常に悩ましい状況。
とはいえ、カラダが辛いからと言ってその場に突っ伏して寝るわけにもいかないわけで、選択肢はカラダを動かすことの一択のみ。


グローブをはめた手でフカフカの雪を掘り起こし、脱出成功をするも、それを繰り返していると今度はグローブに段々と雪解け水が染み込んでくる。
もがきながら進んでいるときにはサウナのような体熱で気づかないが、休憩しているときに、その水の冷たさが、手の痛みとして伝わってくる。


手が痛いついでに、足も感覚あるのかないのかわからない。
休憩中は大量に着込んでも寒くて震えが止まらなかった。
行動食用に下界のセブンイレブンで購入したおにぎりはご飯がシャリシャリに凍っていた


先輩はあとちょっとだという。
「あとちょっと」とは、究極的な曖昧な表現である。
あとちょっと、あまり坂道はないが、雪がなければ20分で辿りつくところを1時間かけて歩くと言っていた。
この最高に悲鳴を上げそうな状態からさらに1時間と思うと辛いので、あえて自分の脳では最短2時間と脳内変換してみた。
こういうとき、自分の脳みそがハッピーでよかったと思う。


ランニングしてるときもそうだが、私は性格的に気分がノルと自分を追い込んでしまうのがベースにあるため、苦しくなってきたときこそ笑うことを習慣づけている
下界でランニング私とすれ違う人々はさぞ怖いであろう。
必死なのに笑顔なのだから。


今回の登山中も、前を見て俯きながら、笑顔を無理やりつくった。
そうすると、一発で気分が切り替わる。
笑顔ってすごい。

冬季登山


そうこうしているうちに、目の前が崖になっている地点まで来た。
圧倒的な急斜面、いわゆる崖である。
人が歩みを進めていくべき場所ではない、だって崖だもん。
先輩が荷物を下ろして、スコップを手に持って、お前は休憩してていいよって言われた。


先輩はアイゼンの前づめを雪に突き刺し、つま先立ちの状態で道を作り始めた。
休憩していろとは言われたけど、どう頑張ってもカラダを停止させていては寒い。
カラダを動かしてでも温めなくては、保たない。
しかし見た感じ、あの仕事は私にできる芸当ではない。


ガクガクブルブル。
何もできない私は、何もできないことに対して何も感じることもできないくらいに疲労し、ただ座っていた。


声が聞こえた。
終わったよー、ちょっと休憩させてねー。
あれだけ足腰を酷使しながら、つま先立ちの状態で黙々と崖の下に雪を放り投げ、一筋の道ができてしまった。
すげえな。

・・・

朝登り始めて、もう辺りは暗くなり、ヘッドライトを頭に装着する。
この暗さで自然のなかを歩くことも初めての経験だった。
先輩がいなければあっという間に下山していただろう。


あと5分で着くよ。
脚はもうすぐ攣りそうなほどに強張っていた
肩は誰かが引っ張ったらもげそうだった
腰は正常なポジションがわからないくらい硬直していた
多分、もう限界だった。


暗い森の中。
いつの間にか、私たちは小屋に到着していた。

・・・

冬季登山


とりあえず着いたらしい。
山小屋の原型や地形を知らない私にとって、雪を被った小屋を見てもなに一つイメージがわかなかった。
雪かきすることでここがどうなっていくのか。


ザックを適当に下ろし、休憩する暇など全くなかった。
山小屋には、本棟が冬季は入れなくなるため、冬季用の簡易小屋を利用するのだが、この扉が凍っていて開かない。
そして、装備の水が尽きているため、水場の確保をしなくてはならない。


最後のもう一踏ん張り。
氷をピッケルで粉砕し、水場を掘り出した。


その日の晩御飯、即席ラーメンと、水が美味しかったのは言うまでもない。

冬季登山


一日目の夜、私はこのあとがどんな苦行になるかを知らない。
ここからが本番である。

冬季登山
冬季登山
冬季登山








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横浜生まれ横浜育ちの知的好奇心の奴隷。 島暮らしと山暮らしを経ての、街暮らし満喫中。 新しい刺激に貪欲で、まったりするのも好きだけど、基本的には超アクティブな超・直感型人間。